親父は納豆屋だった。 | BREST Weblog / by Shuichi Miya
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親父は納豆屋だった。僕が中学生から高校になるくらいだったろうか、勤めていた納豆屋を辞め、食品卸の事業を創業した。同時に「金沢納豆」という自社ブランドを立ち上げ、黒豆納豆など新たな分野に挑戦していたことが記憶に新しい。しかし、納豆は1パック100円前後で売られている。粗利といっても10円に満たない数円の世界。数年して、納豆事業を縮小し、天然塩事業に転換したことは、粗利益率も大きく影響していると後に知った。またパッケージに載せるキャッチコピーを書かないかと言われ手伝ったりもした。それは、過去の記憶を度々忘れる僕も、はっきり記憶しているところだ。

その頃、僕は20歳前後。とある週末、親戚の結婚式に行った帰りのエレベータ内で親戚の叔父さんと一緒になった。聞けば、全国に飲食事業を展開して、1ヶ月の家賃は1店舗で2,000万円以上払っているのだと言う。まるで違う世界にいる人が近くにいる。この事実は、大学生の僕にとって衝撃だった。そして、僕にこう言った「お前も早くこっちに来い」と。その時はまだその意味をしっかり理解していなかったかもしれない。

しばらくして、僕は就職活動の時期を迎えた。超就職氷河期と言われた真っ只中。学生指導課の担当からは、リクナビ、マイナビ、アイバック(当時の求人ポータル)に登録し、面接に伺うことはもちろん、100社エントリーして1社決まればいいという、今では考えられないことを全学生に向けて発信している時代だった。そんな中、僕は実家に帰ると1冊の本が居間のコタツの横に転がっているのを見つけた。そのタイトルは「人と違うことをやれ!」。当時、「朝まで生テレビ」など一線で活躍していた堀紘一の著書だった。親父が読みかけか読み終わったかという状態で放置されていた。当時の僕にとってその本は衝撃であり、刺激的であった。今となって振り返ればだが、僕は小学生の頃から「右へならえで落ち着かない」性格だったと思う。集団行動も得意なほうではなかった。だからなのか、その言葉一つ一つが全身に浸透してきた。そして、当時聞いていた音楽がDragon Ash。今で言うところの、ONE OK ROCKか。金沢にライブがあるということで友達と行くと、ステージの上で輝く降谷建志がたまらなくカッコよかった。同時にある種の疑問を持った。反対側で僕は手を叩いているという事実に。それから間もなくしてだった。車のトランクにYAMAHAのアコースティックギターを積み込んで金沢駅に向かったのは。駅で弾き語りを始めた。初めはドキドキだったが、いつしか一緒に演奏する仲間が増え、お客さんも集まるようになった。同時に、警備員からの撤収命令も日常的だった。小さくても主役になれるステージが欲しかった。とんねるずの「情けねえ」の歌詞にある「人生の傍観者たちを俺は許さないだろう」が、心の深いところで流れていたかのように。

その流れか、大学の同級生で野球チームを結成し、結果20人ほどに増え、社会人になってからもナイター連盟に加入して続いたことも、僕の人生においてとても貴重な出来事のひとつだ。僭越ながら器量にもなくチームの代表兼監督をさせていただき、ネーミングからユニフォームのデザイン、ステッカーやTシャツなどのグッズデザイン、また対戦相手やグランドとの事前交渉、スタメンオーダーなどを行っていたことは、現在の仕事に結びついており、今振り返ると、点と点が繋がっているのだと感慨深い。

大学卒業を迎える22歳、就職せずに事業を始めることも考えた。しかし、何屋になるかが見えなかったし、分からなかった。そこで、いろんな事業を見れる会社に就職しようと思い、金沢の税理士業務を主とした独立系経営コンサルの会社に魅力を感じ入社させていただいた。そこでの経験は、今のブランディング事業の礎であることは言うまでもない。入社2年目で上場企業の社長直轄で様々なスキーム立案や医療分野における財務戦略、また経営革新業務に携わらせていただいたことは感謝以外の何ものでもない。

やがて、時は29歳。その間、あらゆる資格に挑戦したが、僕の頭はどうも士業に向いていないことだけはハッキリした。朝4時に起きて勉強しても結果のひとつも出やしない。そうこうしているうちに、映画館で高校の友人とバッタリ会った際に彼は税理士になったと知り、絶望的だった。しかし、仕事は大変ながらに楽しかった。そんな中、本当の意味で企業の未来への成長戦略に貢献しきれていないというジレンマも感じていた。もっと、こんなHPにして、こんなデザイナーが入って、こう打ち出したら伸びるのにという想いをカタチにしたいと感じ始めていた。それから、しばらくして、BRESTを創業した。そして、良い仲間に恵まれた。

創業時からBRESTのロゴの右下には、「Branding」と書かれている。何も無かったが、勢いと自信だけはなぜかあった。「時代と社会が僕を求めているので会社を辞めることは仕方ないんです」と前職時代の最後の朝礼で言ったことは、独立後「さほど求められていなかった」というネタに変わった。

それから、10年が経とうとしている。その間、ここでは書ききれないほど大切な方々との出会いと一生かけてもお返ししたい恩があって今がある。そして、当時の上場企業の社長から10年目にして声をかけていただき、お仕事させていただくとは、24歳の当時からは夢想だにしない。ここでも点と点が繋がっていると、不思議なものだ。

今、またこれから新たな展開と挑戦の日々が続いている。先はわからないが、どうやら今というその時その時を真剣にやっていることに意味があるということだけは確かなようだ。

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